「家庭にリベラルアーツのエッセンスを」連載 Day4の今回は、第2章「学ぶ(動詞)を広げてみよう」について考えてみたいと思います。
第2章「学ぶ(動詞)を広げてみよう」
前回までの記事は、こちらからご覧ください。
以前、コピーライターで不登校支援の活動をしている蓑田雅之さんが、子ども時代からのリベラルアーツCo-musubiの子どもたちの意欲的な姿を見て、「Co-musubiの子どもたちの学びは、動詞の「学ぶ」がしっくりくるね。」と以下のようなコピーを書いてくれました。
話す、その先に、聞く人がいる。
問う、その先に、答える人がいる。
人の、その先に、人がいるから、
たがいに語りあい、笑いあい、
学びあい、高めあうことができる。
人と人とが出あい、対話し、刺激しあう
ラーニング・コミュニティのなかで、
のびのびと好奇心の翼をひろげ、
ひろびろとした世界へ羽ばたいていく。
そこには子どもも、大人もない。
ひとりひとりが自らの学びを創り、はぐくむ
学びのクリエイターとなっていく。
「学ぶ」を創り、はぐくむ。
ダイアローグ・ラーニング
Co-musubi
現代を生きる私たちが「学び」という言葉をイメージした時、多くは学校で教科書に沿って教えられ受け取るスタイルや、練習や訓練を繰り返し身につける知識や解答のスキルを思い浮かべるのではないでしょうか。
この一ヶ月、私も改めて「学ぶとはなんだろう」と考え続けてきました。
そしてふと手にとったNHK出版「ブッダが教える愉快な生き方」という一冊の中に、私が求めていた答えが見つかりました。
「学びたい」という欲求は、「未知」に対する深い驚きがなければ起こりません。「自分は知るべきことをまだ知らない」「わかっていない大事な問題がある」という洞察があって、初めて探究が始まるのです。
ブッダは老・病・死の現実を見て、「私は生きることや世界について何も知らないじゃないか」と驚く感性を持っていました。
(中略)
その未知の世界に触れて、驚きをもって乗り出し、とことん探究しようというのが、「学び」の本来の動機です。
とあります。
また、
ブッダが生きている間は、経典なんてありません。その時その場で相手に応じて、生き生きとしたやりとりがなされているだけでした。その原点を忘れて経典の解釈や注釈ばかりを重視する風潮に一石を投じたのが達磨大師です。
とあります。
経典を教科書に置き換え考えてみると、そもそも教科書のなかった時代があったはずだという事実に目を向けることができます。
本書ではさらにこう続きます。
禅問答では、そもそも何が問われ、何が答えられているのか、それを深く自分に引きつけて汲み取る学習法が大事になっています。(中略)のちに歴史に名を残す禅僧の多くは、仏教について学得(知識を書物などから学ぶこと)でわかったつもりになっていました。しかし禅問答でコテンパンに打ち負かされ、それまで積み上げてきた学得という財産を一度完全に否定された末に、学得を手放して、(中略)それまでの学び方を根本的に更新することになったのです。
他人の言葉ではなく「自分自身の体で学べ!」学得よりも体得せよ。自得せよ。
ブッダは経典を学んだのではなく、ただ生きることを学びとしました。
赤ちゃんは知らないうちに、生きることそれ自体から何かを学んでいます。このような学び方をオーガニック・ラーニングと言います。樹下の打坐とは、効率や成果を重視する”学校的な学び”から”オーガニック・ラーニング”へのラディカルなシフトだったのではないか。
まさにこの禅問答の学び方は、記事の冒頭でご紹介したコピーとも重なります。
私たちは本来、生きることそれ自体から何かを学んでいて、日常は学びに溢れています。私たちの意識が変われば、日常はワンダーランドになるのです。
Co-musubiの子どもたちの生き生きとした動的な「学ぶ」は、このオーガニック・ラーニングそのものなのだと長い旅を経て原点に帰ることができた気持ちになりました。
現代を生きる私たちが、過去の賢人たちが積み重ねてくれた知の巨人の肩に乗り、よりクリアに世界を理解し、さらに前進していくためには、教科書から得る学びもとても大切です。
しかし一方で、誰かの言葉をいくらなぞっても、それはいつまでも本来的には自分のものにはならないのです。
ただ生きることを学ぶ。
生きる中で自ら体得し自得する。
生き生きと学ぶ。
これまでのような受け取る学びの何割かを、この動的なオーガニック・ラーニングにシフトすることで、私たちは本来の「学ぶ」の中で、人生を謳歌しながら生き生きと成長することができるのではないでしょうか。
さて、以前Co-musubiで小学校時代から育ってきた中学生たちに「あなたにとって学ぶとはなんですか?」と質問したことがあります。
「見るものすべてが新しいもの。自分の将来に役立つ。受験にも関係していく。好みで印象は変わるが頑張りたいもの。」
「学びとは、僕にとって生きているうえで活かしてそこで初めて知識が生きたと感じるもの。」
「明確な目標や意思を持ってやるものではなく、本能的にひたすらやっているもの。」
と答えてくれました。
また、「学ぶと勉強の違いについてどう考えますか?」
という質問には、
「勉強と学びは違う。勉強はなにかしら縛られている。宿題も範囲が決められている。学びは、自分でやりたいことができるから、尊敬している人のスピーチを聞いたり、自分の好きなように調べることができるのが学びだと思う。」
「勉強はその場その場のテストのためのもの。学びは、人生の中で大事なことを感じ取ること。」
「勉強は出されたものをやる。学びは自分から取り組んでそれが知識になる。」
「勉強には限りがある。ずっと学ぶことは増えていくので、学びは果てがないこと。」
と答えてくれました。
何より、自分で体得し自得した言葉で語られているのが素晴らしいと私は思うのです。
それこそが「学ぶとは何か?」を物語っているように思います。
本日は第2章の導入で終わってしまいました。
次回は、
1) 好奇心とは
2)なんのために学ぶのか?
3)家庭でできる具体例
について書きたいと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
コントリビューター
井上 真祈子 | Makiko Inoue
一般社団法人ダイアローグ・ラーニング代表理事
薬学部卒。高校1年生と大学2年生の姉妹の母。プライベートでは、子どもの発達段階を考慮し国内外を移住しながらの子育てを実践。東日本大震災を機に家庭教育支援をはじめる。子ども時代からのリベラルアーツ「Co-musubi」と偶発性ある読書会「セレンディピティ・ブックス・ダイアローグ」が主な事業。多様な子どもへの理解を深める啓発活動や、さまざまな業界のパラダイムシフト支援もライフワークとし、2019年経産省や2020年文科省のギフテッド教育研修コーディネーター、2019年、2020年Learn by Creationワークショップチームリード、2021年~日本型リベラルアーツ推進委員、企業による学校授業制作カウンセリング、2022年〜女性医療人のリーダーシップラーニングコミュニティ創設など、多岐にわたり活動している。