町の行政、教育機関、ビジネス、保育施設、学童施設、保護者たちが有機的に連携を取り、子供が社会と接続しながら豊かな感性を育んでいくレッジョ・アプローチの本場であるレッジョ・エミリア市の視察ツアー (主催:子ども教育立国)に参加してきました。(レッジョ・アプローチの紹介記事はこちら)
お伝えしたいことは色々ありますが、今日は旅全体を通じて私の印象に大きく残った1つのポイント、対話の文化が育む子供の力についてご紹介します。
会話には場を和ませる役割など話のキャッチボール自体に価値がありますが、対話には理解をし合うプロセスが必要です。レッジョ・エミリア市では、信頼関係を築く対話的コミュケーションが長年行われた結果、元々母親たちが第二次世界大戦後に街の復興と女性の自立を願って始めた私立の保育園が、20年の年月を経て、公共の保育園となり、街の様々な団体と連携する現在の形に進化していったのだということが分かりました。人口17万人の中規模の街、レッジョ・エミリア市が世界に誇る幼児教育のアプローチを育て上げられたのは、母親、市民、行政、教育者、など様々な立場の違う大人たちがじっくりと対話を続けることで協働の形を作り出せた結果であり、その仕組みは現在も対話を通じて進化を続けています。
私がレッジョ・エミリア市でお目にかかった方々は、教育者、リサーチャー、アトリエリスタ、アーティスト、など立場の違う人々でしたが、みなさん異口同音に「シェアと対話」を強調されており、対話ができる大人を育てることこそが真の民主主義社会を作り出す土台になると痛感しました。
対話の1つの例が、「権利 (Diritti)」についてです。レッジョ・アプローチの園を伺った時に、入り口で「権利 (Diritti)」というサインが掲げられていました。以前の島田さん執筆の記事でも、「先生が子供達に提案し、強制はせず、子供達には先生達と交渉する権利があり、先生はあくまでもガイド・コーチ・ファシリテーター等の役割を果たします」と紹介されていましたが、レッジョ・アプローチの父であるローリス・マラグッチ氏は、「子どもの権利」「大人の権利」「先生の権利」を考えており、各園では保護者も交えて、お互いの権利についての対話がされるそうです。
とても感動したのが、40年以上レッジョ・アプローチのペタゴジスタとして教員育成と園の運営に関わられているマルゲリータ先生のお話から伺った、「(人間には)お互いがそれぞれ主張するのではなく、言って、聞いてもらう(シェアする)権利がある」と言うコメントです。具体的な例として「子供は学び、探求する権利があります。例えば、外で遊んだり、つまんなくなったり、何かに没頭したりということです。子供に問いかけると色々な返事が来るのです。今の親御さんはすぐに危ないといって少しの怪我でも慌てたり、先回りして子供を忙しくさせがちですが、子供の権利も尊重しなくてはなりません。」というお話もありました。また、シェアをするという考えを浸透させるカルチャーとして、どの部屋も外から見えて、誰もが出入りしやすい雰囲気になっており、プロジェクトとして完結した活動のドキュメンテーション(学習の発達に注目した記録)が園内の随所に掲示されており、それを見た子供たちが、他の子の経験や考え方について話し合う(=対話)することが出来るのだそうです。
徹底的に子供たちの発するメッセージを大人が受け止めながら、大人も問いかけたり新たな提案をする。そんな対話の中で育つ幼児は、自らの関心を探求した活動を100の言葉でのびやかに表現するからこそ、レッジョ・エミリア市の子供たちの作品は感動を生み出しているのだなぁと感じました。
レッジョ・アプローチの教育機関であるローリスマラグッチセンターでのレクチャーでは、レッジョ・アプローチとは、観察、ドキュメンテーション、解釈から構成される傾聴の教育手法だと紹介されましたが、言葉でのコミュニケーション能力はまだ高くない乳児や幼稚との対話の手段として非常に有効であるということが理解できました。
さて、我々の日常の親子関係を考えた時に、私たちは日々子供と会話をしているのでしょうか、それとも対話をしているのでしょうか?
おそらく殆どの親は、レッジョエミリアの幼稚園や保育園の先生の様に、子供を教育的観点で観察しながら問いを投げかける訓練を受けているわけではありません。とはいえ、子供たちの最大の理解者であるべき我々親は、観察力をあげる努力を日々行うことで、子供に適切な問いを投げかけ、結果的に子供と対話をしていくことが上手になっていくのではないかと思います。
子供と対話をする時に気をつけたいのは、子供の様子に意見を伝えるだけでなく、親の立場もきちんと説明する事です。例えば朝子供がなかなか着替えてくれない時に、説明なしで洋服を着せたり、頭ごなしに「早く着替えないとおいて行くよ」と言うのではなく、「ママはX時までに仕事に行かなくてはいけないから、あと5分で着替えられない時はお手伝いするよ」とか「あと5分で出ないと朝の会の前にXXする時間がなくなるよ」といった説明を付け加えてあげたり、見通しを立てやすい説明をしたり、それが明示的になる掲示をしてみるなど工夫してみると、地道なプロセスの中で、子供は自分が受容されていて(認められて)愛されている事を感じ、信頼関係を持って自分の思いも伝えたり、難しい状況でも対話をする親子関係が築けるのではないかと思います。
説明の一手間が、日常生活の忙しい時に難しい場面も多々あるでしょうし、安全面でビシッと言わなくてはならないこともあると思いますが、全般的に子供と対話をすることを意識しているだけで、積み重なる信頼関係の形は大きく変わってくるのではないでしょうか?
日本は対話よりも目上が目下に「教える」目下が「見て学ぶ」ことが伝統的に重んじられ、年齢や立場を超えて対等に対話をすることはあまり奨励されて来なかった歴史的経緯はあると思います。また小さな子供たちの中に流れている時間などの感覚は、大人と違うものなので、対話には大人側の我慢と待つ心が必要となってきます。
ただ考えてみると、これからを生きる子供たちの長い人生の中で、親がじっくり関われるのは小学生の10-12歳あたりまででしょう。この10年ほどで子供の対話力を磨くことができれば、子供は自分をよく理解した上で周りと関わりを持つことができ、相手を聞く力も持つことで、共感力を持った大人に成長することも出来るでしょう。
日本でもこども哲学やピースフルスクールプログラムなど、対話から思考力や主体性、自立と共生の力を育む学びが始まっています。レッジョ・アプローチの幼稚園を選択することは出来なくても、根底の考え方を理解することで、それぞれの家庭での対話の文化を育ててみてはいかがでしょうか?私も日々の子育てでは反省することばかりですが、今回の学びを胸に、子供達と対話する力を、言葉だけではなく、家の環境も含めて見つめ直して見たいと思います。
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