習慣から考える日本の教育:宿題編
外からみると、同じようなビジネスをしている会社なのに、中にいる人に話を聞くと、全く違うタイプの会社だったという経験はおありでしょうか?
例えば、楽天とアマゾンは、二社ともEコマースが根っこの会社ですが、楽天は、金融を中心に多角化している一方でとても日本的な会社であり、アマゾンは、AWSやスペースビジネスなど、新たなフィールドを開拓している超米国型企業です。車を製造する会社でもでも、トヨタとテスラは全く異なった文化の会社なので、目指す方向性や戦略も違います。同業他社といえでも企業文化が全く異なるというのは良くきく話です。企業文化やルールが違えば、仕事のやり方は違い、重用される人材は変わり、会社の気質も違ってくるというのは想像しやすいかと思いますが、学校はどうなのでしょうか?
我が家で考えても、様々な経験があります。
学校でも、毎日沢山宿題を出すことで、子供達の勉強をきっちりみようという学校と、宿題を出さないことで、家庭でのゆったりした時間を楽しみながら、学校ではアクティブに過ごしてほしいという学校では、随分違います。時間割が45分刻みで6時間ある環境と、2−3時間のブロックで、優先順位を考えながら、自らの学びのスケジュールを先生と相談しながら組み立てるという文化も、大きな違いがあります。
企業でも学校でも組織体に共通することだと思いますが、どこまで社員や学生を尊敬して、各自の判断に委ねるかということも、文化に大きく影響してきます。Empowerment (エンパワメント)という言葉を聞かれた方にはイメージがつきやすいかもしれませんが、権限のある人は最終責任はとるが、意思決定は現場の人がとるという環境の中では、現場の人や学生もリスクを取りやすくなります。宿題という習慣は、学校の一部の構成要素ですが、アプローチの仕方次第で、子どもたちの学び方や、評価される子ども像も変わり、結果的に学校文化も違ってくるのです。
宿題は必ずしも悪いことだけではありません。
学んだ内容を、ある一定のインターバルで復習することは、学びの定着に繋がるという調査結果も出ています。単元後の適度に感覚を置いた後の小テストは、脳科学的にも記憶の定着に有効性がみられるそうです。ただ多くの場合、各教科で宿題が出されると、足しあげると一日数時間かかる量になり、生活に余裕がなくなったり、睡眠の質が低下したり、親子ゲンカが増えたりという弊害があります。
宿題の個別化がされているかというのも、モチベーションの維持を左右する大きな要因です。例えば我が家の娘の場合幼少期に海外に住んだ経験もあるので、家庭では教えていませんでしたが、幼稚園にアルファベットは大体書けるようになっていました。その一方で、小学校では3年生にアルファベットを習うということで、幼稚園の時にマスターしていたアルファベットの練習のワークブックが夏休みの宿題として出されたため、能動的な学びから、やらされている課題になってしまい、学校の英語は好きでなくなってしまいました。
そろそろ、宿題が目的ではなくて、何のために宿題を出すべきか、果たして子供一人一人にとって、その日の宿題はトータルで見て有用性があるのかなど、全体的に考えるべき時が来ている様に思えます。
大人の場合は、あらゆる方面からリクエストがあったとしても、優先順位を付ける事で、パフォーマンスが維持できる範囲で何をこのタイミングでやるべきかという計画ができます。残念ながら、宿題という名前がついてしまうと、日本の学校の子供には、優先順位をつけるといった選択肢はありません。社会に出たら、優先順位のつけられない人は活躍できないのに、日本の学校では、皆平等という名の下に、子供に優先順位をつけさせる機会を奪っているのかもしれません。
子供は環境が整えば自ら学ぶ存在だと仮定する事と、子供は空っぽのコップで、大人が教える事で、そのコップを一杯にするという、上から目線の考え方では子供に対するアプローチが違います。おそらく宿題は後者のタイプの学校に多いのではないでしょうか?世界の教育の最前線であるフィンランドでは、宿題はありませんが、子供達が勉強していないわけではなく、現にフィンランドは世界でも高い基準の学力を示していますし、昨今は世界を席巻するスタートアップも輩出しています。
念のためにみんな宿題をやっておこうという発想から、必要に応じて個別に生徒のニーズに応じた宿題がある、もしくは宿題に頼らない学力の向上方法を考えるという発想の転換が、小・中学生には求められていると思います。